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2006,10,11 恋愛についてのmemoってこと
2006,10,4 幸せと不幸せについての僕的考察とその後の昇華にいたる方法ってこと
2006,9,25 安定した生活?ってこと

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恋愛についてのmemoってこと 2006,10,11
恋愛がヘタなことは認める。
っていうか恋愛ってなんだ?

「愛されてる確信が欲しい」ということを一方的に
訴えることは恋か?愛か?それともこれ自体が
恋愛か?この駆け引きはなに?

欲しがるということは悪くない。
誰にでも欲求はある。
欲求とは需要だ。
その需要に見合う供給がなければ恋愛は成り立たない
ってことなのか?いやいや、36になってもそんなこと
すら分からない。

恋愛するたびに「めんどくさい」と感じてきた。
この需要と供給のバランスを保つ駆け引きがあるからだ。
恋愛が終わるたびに2度とするもんか!と決意してきた。
ただしその期間が長くなるとどーもまず体が枯渇する。
まーなけりゃないでいいのだけれど、あればそれに越した
ことはないって感じで。

平行するバランスで恋愛関係を保てる人はしあわせだろう。
でも実際そんな男女はいるのか?
永遠の愛を便宜的に誓ったクセに簡単にそれを反故にする
やつらしか俺の周りにはいない。
そいつらは人間的にダメかというとそいうではなくしっかりとした
社会的な人間たちだ。
ってことはその愛ってのは永遠ではないというだけの話だろう。
言葉ではどうにでもその場を繕えるもの。

人間が生きていくうえで(寿命を全うする短い間で)、人間社会を
生きていくうえで考えなければならないのは人と人の価値観
じゃないのだろうか?夫婦間だって所詮は他人だ。
妻は自分じゃないし、夫は他人だ。
それぞれの価値観がある。
その価値観を互いに認め合う努力をすることが恋愛を超えたところに
あるんじゃないの?

あ、もう一回いっとこ。
恋愛っていうのは「ご飯が好き」だの「パンが好き」だのという嗜好の
意味でしかないと俺は思っている。
嗜好は変わる。神の前で誓う「愛」とやら言うのも変わる。
相手の欲しがる言葉を言うだけでその場は確かに取り繕えるけれど、
言葉というのは情報であり、情報は変わる。
情報が変わるというより、その情報の価値は変わる。
結婚すると恋愛感情がなくなるのはそういうことだろう。
どうせするなら恋愛ではなく、もっとドロドロしてもいいから脳みそと
脳みその昇華というか、螺旋的に一緒に上昇していける関係がいい。
矛盾してるように聞こえるかもしれないけれど。
そんな関係であれば欲しがったり与えたがったりせずとも、自然に吸収
しようとしあう。そう、自然。こんな自然は不自然だと言われるかも
しれないけれど、冒頭言ったような相対的な欲求を順次満たしていくような
関係はしたくない。大体そういうことを結婚してから何年後かに気付く
ようなことをしたくない。
まぁ全部の夫婦がそういうわけじゃないのだけれど。

−−−

「誰でも言いというわけではない」なんてよく言うけれど、
実際は誰でもいいわけだろう。
欲求を満たしてくれるのであれば。
巷間「Only One」なんて言葉を流行らかした歌手がいるけれど、
人間は「Number One」を欲求するはずだ。
「私でなければダメな関係」を欲求するけれど、「お前じゃなければダメ」だ
と言葉で説明してやると満足する。
それは自分のことを「Only One」だと思ってくれている人間が「Number One」
であることを自分自身で確認して満足しているに過ぎないとおもうのだ。
腹の中でベロを出しているかもしれないのに。
実際浮気するヤツはそうなのだから。

「Only」だの「Number」だの振ってる時点でそんなのおかしいと思うのだ。
二人の関係は数字で表せないだろう。
そこに存在する。「在る」のだ。互いが。
それはそれだけですごいことなんじゃないの?
もーなに言ってるかわからんようになってきたけでも。
とにかくめんどくさくない関係がいいのだ。
その延長線上に社会的な結婚というシステムを見据えた生活というのも
あるのだと思う。

でもまぁこの考え方自体が「求めている」という我侭な
個人的欲求だということには目をつむっていたい。

幸せと不幸せについての僕的考察とその後の昇華にいたる方法ってこと 2006,10,4
人間社会の中で人が100人いれば100通りの考え方がある。
100通りの考え方があればやはりそれだけの価値基準がある。
するとこれは普遍的な価値の肯定ではないので
各人が特殊な考え方をもつということにほかならない。
そしてその価値基準の中で人は生きようとする。
つまりそれぞれが特殊な価値を創造することによって人間の
社会的生活は営まれていることになる。
言い換えれば、絶対的なものではなく常に相対的なものを
こそ人は追い求めているということだ。

それでは人間社会の中で絶対的なものとは?
そしてそれは存在するのか?
これは僕の稚拙な思考ではとてもたどり着けるものではない。
「在る」と考えればそうだし、逆に「無い」ということも「在る」からだ。
「幸せ」などということばは人間が便宜的にとってつけた一種の
相対的な概念であって、それがすべてではない。
なぜならそれを思い求めることによって、結果「不幸せ」を得た
と考える人もいるからだ。
逆にその「不幸せ」と考えられる状態の中で「幸せ」を感じる
人たちも実在している。

この両極のバランスの中に人は常に存在している。
しかもこのバランスの位置は、それを経験している当該人物
ただ1人の価値判断の基準によって決まるものだ。

各論を論じれば、この現代にも奴隷というものは存在する。
人間社会のメジャーな意見から言えば非人道的で時代に
そぐわない対偶を受け続けている人たちだ。
しかし彼らはそれでも家族を持ち子孫を残し続けようと努力
する。生命保存の本能を生物本来がもつ欲求として発揮しようとする。
もし彼らが本当に絶望的な存在であれば、彼ら自らその欲求を
放棄するだろう。
でも彼らは希求する。
家族という極小のユニオンの中で自己をアピールしようとする。
それでも彼らの考える「幸せ」を求めることを止めない。
そういったそれぞれの価値を希求する努力、能力をこそ「愛」と
呼ぶのだと思います。

そしてこの「愛」というものは人間のDNAに深く刻み込まれているもので
有史以前から未来永劫受け継がれていくべき人間の特殊な性質
なのだと思います。
この「愛」を、コントロールできる力があればそれはそのまま「絶対」という
性質のものだといえるのではないかと思う。
この「絶対」があれば「不幸せ」と「幸せ」のパワーバランスを自分の
「愛」でコントロールできるから。

僕はこの世界唯一のコントロールメゾットを知っている。


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