| petit多事総論 |
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| 幸せと不幸せについての僕的考察とその後の昇華にいたる方法ってこと | 2006,10,4 |
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人間社会の中で人が100人いれば100通りの考え方がある。 100通りの考え方があればやはりそれだけの価値基準がある。 するとこれは普遍的な価値の肯定ではないので 各人が特殊な考え方をもつということにほかならない。 そしてその価値基準の中で人は生きようとする。 つまりそれぞれが特殊な価値を創造することによって人間の 社会的生活は営まれていることになる。 言い換えれば、絶対的なものではなく常に相対的なものを こそ人は追い求めているということだ。
それでは人間社会の中で絶対的なものとは? そしてそれは存在するのか? これは僕の稚拙な思考ではとてもたどり着けるものではない。 「在る」と考えればそうだし、逆に「無い」ということも「在る」からだ。 「幸せ」などということばは人間が便宜的にとってつけた一種の 相対的な概念であって、それがすべてではない。 なぜならそれを思い求めることによって、結果「不幸せ」を得た と考える人もいるからだ。 逆にその「不幸せ」と考えられる状態の中で「幸せ」を感じる 人たちも実在している。
この両極のバランスの中に人は常に存在している。 しかもこのバランスの位置は、それを経験している当該人物 ただ1人の価値判断の基準によって決まるものだ。
各論を論じれば、この現代にも奴隷というものは存在する。 人間社会のメジャーな意見から言えば非人道的で時代に そぐわない対偶を受け続けている人たちだ。 しかし彼らはそれでも家族を持ち子孫を残し続けようと努力 する。生命保存の本能を生物本来がもつ欲求として発揮しようとする。 もし彼らが本当に絶望的な存在であれば、彼ら自らその欲求を 放棄するだろう。 でも彼らは希求する。 家族という極小のユニオンの中で自己をアピールしようとする。 それでも彼らの考える「幸せ」を求めることを止めない。 そういったそれぞれの価値を希求する努力、能力をこそ「愛」と 呼ぶのだと思います。
そしてこの「愛」というものは人間のDNAに深く刻み込まれているもので 有史以前から未来永劫受け継がれていくべき人間の特殊な性質 なのだと思います。 この「愛」を、コントロールできる力があればそれはそのまま「絶対」という 性質のものだといえるのではないかと思う。 この「絶対」があれば「不幸せ」と「幸せ」のパワーバランスを自分の 「愛」でコントロールできるから。
僕はこの世界唯一のコントロールメゾットを知っている。 |
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